2014年5月10日土曜日

土曜日 朝の散策  そして枯れる

 朝から、毎週土日の散策。目的がないと、なんとなくうやむやになり、散策をしなくなるので、近く(家から4・5キロ以内)の神社をめぐることを目的に、コースを決めて、1か月に1度ずつ回ることを企画し、1年以上。今は6コースある。定点観測ができるので、季節の折々の景色が楽しめる。雨の日などは取りやめるので、1か月6コースはちょうどいい。ただ、この5月は、休みを利用し、散策をしているので、後半は、別のことを考えないとコースがなくなってしまう。
 今日は稲毛区役所を通り越して、鹿島神社と作草部神社を中心とした散歩。最近は、時々、体をひねる運動をしながらの散歩である。現役時代は、もっと体が柔らかかったが、引退し1年以上たつと、体が硬くなってきている。お腹も立派になりつつある。 知り合いに、だるまさんと言われた。京葉道路を超えて、八幡宮を参拝、このあたりは、小さい畑が点在する。その脇をすり抜け、一本離れた道路に出て、わたって、また次の道路を目指す。
 小学校、中学校の間を通る。土曜なので、学校は休みらしい。その先では、エイ、エイという掛け声が聞こえてくる。中学校のグランドで、野球の練習をしているのが見えた。さらに、道路を渡り進むと、すぐそばに公園がある、それほど大きくはないが、木でかこまれていて風情がある。その向うに、鹿島神社が見える。
 小さな神社のそばには、必ず公園がある。おそらく、戦後、生活環境向上、整備のため、公園を造ろうとしたが、自治体には、お金も、土地もない。そこで、神社の境内を転用したものとみられる。
 もともと、神社には鎮守の森があるのが普通。小さくとも、森はあった。それを公園にしたのではないか。まあ、人々の為に利用されているのだから、神様も文句は言うまい。ただ、祠の裏に何もないのが気になる。本来、木々によって守られていたのではないか? ちょっと、風情がないなど思いがら、お参りをする。 そんな、愚にもつかないことをいつも考えながら、散歩をする。
 さて、この公園は、鹿島神社の境内だったのだろうなーなど思った。公園を突っ切ろうと思ったら、公園の端の丘のようなところに、小道がある、何の気なしに、のぼり始めると、公園は、木々の中にまで続いていて、その先に、だだっ広い広場があるではないか。小道がつくられており、最初思っていた公園の4・5倍の広さがある。驚いた。この公園、意外と広かった。その片隅に、鹿島神社の社の裏が見える。昔の鹿島神社の姿を想像してみた。結構、大きな神社だったのではないかと想像する。それにしても、草ぼうぼうの公園。いつも来ているが、あまり遊んでいる子を見たことがない。あまり使われていないように見える。もったいない。小学校、中学校のそばの小さな公園は良く使われているが、ここも、うまく整備すれば、いい憩いの場になるのではないかとおもうが、それほど、人口の多いところではないことを考えると、このままでいいかなとも思う。
 東京のひとの多さに対する環境からは、考えられないくらい、良い環境ではある。ただ、最近、神社の周りの木々が、伐採されたのが残念である。 その公園のトイレを見ると、扉が外されて中が見えるようになっている。これは、犯罪防止のためと思われる。人通りも少なく、夜の犯罪防止をしなければならないことなのだろう。こんな、人々の行動と対策に、ちょっと寂しさを感じた。
 再び、京葉道路をまたぎ、作草部神社に向かう。
 作草部神社も、隣が公園になっている。明らかに公園の中に神社があると言った格好なので、公園は、神社の境内そのものと言った感じである。ときどき、ご老人たち(明らかに小生より10歳以上お年より)が、神社の参道や、空間、公園までを使い、ゲートボールを行っている。神様も苦笑しながら、下手だなー、とか言いながら、観戦しているのではないか。
 今日は、千葉大近辺には寄らず、最短距離で戻り、稲毛イオンに寄って、昼食を買って、帰宅。
帰宅後、風呂に入る。非常に気持ちがいい。昼食をして一服中。
 などしているうちに、時間がたっている。

 散策中は、いろいろなことを考える。日本人の特徴、儒教の影響、そして、道徳。日本の科学技術、その応用。それらひっくるめて、政府の政策。などなど、
 歩いていると、血液の循環が良くなるためか、いろいろなことが頭をめぐる。家で、それを、さあ、書いてみよかなと思うと、結果は覚えているが、具体的な例や、論理の展開が出てこない。
 でも、それでいいのかなと思う。考えたことが大事なのであって、覚えてなくとも、その積み重ねられていて、どこかでそれが使われている。まあ、教育と同じかなと思うが・・・?
 最も、小生、中学で、『さあ、これを覚えろ』なんていう英語教育をうけてきて、英語が身につかなかった。他の授業もあまり変わらないやり方だった。考えさせる教育が必要なのかと思うが?
 自分で考え、自ら答えを出し、それを利用する。その繰り返しが大事と思うが? そん教育は受けなかった。 その手助けをしてくれるような教育を受けていれば、小生、もっとましな頭になったのだろうが・・・・・。   (確信はない)
 それでも、無事、齢を取った。後は、うまく枯れることか・・・・・。
 いや!! 小生は大俗人、まだまだ枯れないぞ!! などと言う変なプライドが頭をもたげる。
 まだまだである・・・・・・・   えっ!なにが?

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